『冬の旅』(ふゆのたび、Winterreise)D911, Op.89は、フランツ・シューベルトが1827年に作曲した連作歌曲集である。
本作は1823年に作曲された『美しき水車小屋の娘』と同じく、ドイツの詩人ヴィルヘルム・ミュラーの詩集による。2部に分かれた24の歌曲からなる。『水車小屋』が徒弟の若者の旅立ちから粉屋の娘との出会い、恋と失恋、そして自死を描いたのに対し、『冬の旅』では若者は最初から失恋した状態にあり、詳しい状況は語られないが街を捨ててさすらいの旅を続けていく。全曲を通して「疎外感」、「絶望と悲しみ」、「決して得られないもの、もう失われてしまったものへの憧れ」に満ちており、唯一の慰めである「死」を求めながらも旅を続ける若者の姿は現代を生きる人々にとっても強く訴えかけるものがあるとされ、一般に彼の3大歌曲集とされる当作品及び『美しき水車小屋の娘』、『白鳥の歌』の中でも、ひときわ人気が高い。
シューベルトの健康は、1823年に体調を崩し入院して以来、下降に向かっていた。友人たちとの交流や旅行は彼を喜ばせたが、体調は回復することはなく、経済状態も困窮のまま、性格も暗くなり、次第に死について考えるようになる。とりわけ、ベートーヴェンの死は、彼に大きな打撃を与えた。シューベルトがミュラーの『冬の旅』と出会ったのは、1827年2月のことであった。彼はこの詩集の、絶望の中で生きなければならない若者の姿に、自分を投影したのだろうと思われる。シューベルトは前半12曲を完成させ、友人たちに演奏したが、あまりの内容の暗さに彼らも驚愕したという。シューベルトはこの12曲で作品を完成としたが、続編の存在を知った彼は再び作曲に取り掛かり、続編の後半12曲を10月に完成させる。第1部は1828年1月に出版。第2部は彼の死後の12月に出版された。
各曲の解説
シューベルトは、詩の順番を元のミュラーのものから変更している。異なっているところは括弧で元の順番を示した。第1部と第2部は、通して演奏される。
第1部 Erste Abteilung
1. おやすみ Gute Nacht
- 冬の夜、失恋した若者は、恋人の住んでいる町から去っていく。若者は恋人とすごした春の回想にふけるが、今は冷たい雪に覆われた冬。若者は自分がただのよそ者であると感じ、あてもない旅に出ようとする。恋人の家の扉に「おやすみ」と書き残し、旅に出る。
- 「冬の旅」全曲の序曲ともいうべき曲で、この曲全体に貫かれている歩行のリズムがきわめて印象的である。この曲についての解釈で、非常に見解が分かれる点が一つあり、この若者が出ていくのは、恋人の住んでいる家から、なのか、恋人が住んでいる家の前を通った時に、「おやすみ」と記したのか、という点である。しかし、評論家の梅津時比古が指摘しているように、通りかかった時では、長調に転調してからの「君の眠りを妨げないように/そっと、そっと扉を閉めよう」の意味がわからなくなり、恋人の住む家から出ていく、と解するのが妥当ではないかと思われる。
2. 風見の旗 Die Wetterfahne
- 恋人の家の風見の旗が揺れている。風に翻る旗に恋人の嘲笑が重なり、全ての破局の原因は恋人の不実に満ちた裏切りにあったことに今更ながら気付く。
- 荒々しい、オクターヴの伴奏が印象的な曲。
3. 凍った涙 Gefrorne Tränen
- 涙が頬を伝わり、自分が泣いていることに気づき、心情を歌う。
- 巧みな転調が印象的である。
4. 氷結 Erstarrung
- 泣きながら恋人への思いを爆発させる。涙で冬の冷たい氷を全て溶かしたいと歌う。
- 疾走する三連符の描写が印象的である。また、テクストとしても、「彼女が僕の手にすがって歩いた/緑の野原を」と、具体的に娘の身体的描写がみられ、非常に鮮明な印象を残している。
5. 菩提樹 Der Lindenbaum
- 菩提樹の前を通り過ぎる。かつて若者はこの木陰でいつも甘い思い出にふけっていた。枝の不気味なざわつきが、若者を誘う。場所を離れ何時間経ってもまだざわつきが耳から離れない。
- 本歌曲集のなかでは特に有名な歌曲である。ホ長調の甘い旋律は自治体の放送にも使われる。H-H-Gis-Gis-Gis-Gis-Eの下降音型は「Am Brunnen vor dem Tore,Da steht ein Lindenbaum」の歌詞をよく捉えている。
- 三連符の伴奏が、菩提樹のざわめきをきわめて巧みに表現している。イギリスのシューベルト研究家、リチャード・キャペルは、「ほとんど歌えないほど美しい」と述べている。
6. 溢れる涙 Wasserflut
- 自分の涙が雪に落ちて雪と小川に流れていったら、自分の思いのように恋人の家まで届いてゆくだろうと歌う。
- この曲には、記譜上重要な問題がある。すなわち、右手の三連符と左手の付点音符のリズムを一致させるべきか否かである。ドイツのベーレンライター原典版の注釈には、一致させるべき、とあるが、一致させずに演奏する演奏者も少なくない。
7. 川の上で Auf dem Flusse
- 凍った小川に、恋人の名前と出会った日付と別れた日付を刻む。孤独な作業をしながらも、この川の下を激しく流れる水のように、自分の心は燃えている。
8. 回想 Rückblick
- 何かに追われるように、町から逃げていく。しかし、しばらくすると恋人への感情が湧き、町へ戻りたい思いにかられる。
- 非常に荒々しい伴奏が強い印象を残す。最終小節の伴奏のリズムを、後打ちにするか一致させるかで議論があるが、後打ちのほうが今日では主流のようである。
9. 鬼火 Irrlicht
- 鬼火に誘われ若者は歩いていこうとする。喜びも悲しみも、鬼火のようにはかないものだと想う。
- Irrlichtの直訳は「狂った火」。この曲から、具体的な失恋につながる描写は極端に少なくなり、主人公に狂気が漂い始める。
10. 休息 Rast
- 小屋で休息を取る。しかし体の痛みは消えず、さすらいが自分にとって安らぎなのだと気づく。
11. 春の夢 Frühlingstraum
- 美しい花に彩られた春の夢を見る。しかし目が覚め、冷たい現実に引き戻される。
- 「冬の旅」全曲中、「菩提樹」に次いで有名な曲。楽しげな春の夢は、雄鶏の時を作る声で遮断される。この、雄鶏の時を作る声の描写が三度あることから、梅津時比古氏は、聖書の「ペテロの否認」の場面との関連を指摘している。
12. 孤独 Einsamkeit
- 若者は別の町に着く。町の人々の穏やかな姿を見て、自分の孤独さが身にしみる。
第2部
13. 郵便馬車 Die Post
- 町の通りから、郵便馬車のラッパが聞こえてくる。恋人からの手紙などあるはずがないのに、なぜ心が興奮するのだ、と自問する。
- 八分の六拍子の上の付点音符が、郵便馬車の吹くホルンの音を巧みに描写している。しかし、内省的な自問自答の場面では、この描写は使われない。このことに、シューベルトの心理描写の巧みさが表れている。
14. 霜おく頭 Der greise Kopf
- 霜が自分の頭にかかり、頭が白くなる。老人になり死が近くなったようだと喜ぶ。しかし霜は溶けて、死まではなんと遠いのだろうと嘆く。
- レチタティーヴォ的な曲で、ペダル音の巧みな使用や、「これで死が近くなった、と喜んだ」の部分における転調など、随所にシューベルトの巧みな和声法が見られ、目覚ましい効果を上げている。
15. 烏 Die Krähe
- 不気味な烏が町からついてくる。もう僕の死は遠くないだろう、いっそ墓までついて来い、とほのめかす。
- 一貫した三連符の伴奏が、カラスが円を描いて飛ぶさまを描写する。副五度の和音の巧みな使用が印象に残る。
16. 最後の希望 Letzte Hoffnung
- 枝にわずかにぶらさがっている枯葉を、自分の希望にたとえる。しかし枯葉は飛ばされ、希望はついえた。
- 冒頭部分の音楽は、減七の和音の多用により調性が不安定になっている。歌詞に合わせて、音楽は劇的に変化する。
17. 村にて Im Dorfe
- 夜明けに村にたどり着く。人々は心地よい眠りにつき、聞こえるのは犬の遠吠えと鎖の音。自分にはもう希望もなく、この人々とは違うのだ、と孤独を感じて終わってしまう。
- 長いトリルが印象に残る。中間部で、ジョヴァンニ・パイジェッロの歌劇「美しき水車小屋の娘」La bella Morinalaのアリア「もう私の心には感じられない」Nel cor più non mi sentoが引用されている。この引用については、歌劇の分野で成功しなかったシューベルトの皮肉である、あるいはビーダーマイヤー期の、小市民的なウィーン人の生き方への揶揄である、など、様々な説がある。
18. 嵐の朝 Der stürmische Morgen
- 激しい嵐に自分のすさんだ心を感じ、激しく歌う。
- 全曲中、最も短い曲で、多くの録音では一分もかかっていない。
19. まぼろし Täuschung
- 若者をまぼろしが襲う。光が楽しく踊っている。もはやこのまぼろしが自分の安らぎなのだと歌う。
- 怪しげな長調の音楽が、非常に不気味な、異様な効果を放っている。
20. 道しるべ Der Wegweiser
- 町へ続く道しるべを見つけるが、それを避け人の通らない道を行こうとする。若者は死を目指している。
- ここでも、歩行のリズムが重要な意味をもっている。詩の最後に出てくる「誰も帰ってきたことのない道」Die noch keiner ging zurück.とは、墓場へ通ずる道のことであり、それが次の「宿屋」を導き出している。
21. 宿屋Das Wirtshaus
- 若者は墓場にたどり着く。安らかに眠る死者と出会い、自分も死を願うが死ぬことはできない。仕方なく歩き続ける。シューベルト自身が死に抱いていた感情が表れている。
- 全曲中、最も美しさに満ちた曲の一つといえよう。ここには、ドイツ・ロマン派的な、死への憧れの素晴らしい音楽化があり、永遠の安息としての死があるが、主人公からは、その死の安息からも拒絶されるのである。これはドイツ・ロマン派からの決別であり、この点に於いて、マーラーの「さすらう若人の歌」との根本的な相違を示している。
22. 勇気 Mut
- 最後の力を振り絞り、生きる勇気を出そうとする。しかし繰り返される転調は、もはや壊れた心と叫びのむなしさを表す。
- 交錯する短調と長調が目覚ましい効果を発揮する。
23. 三つの太陽 Die Nebensonnen
- 若者には三つの太陽が見える。そのうち二つは沈んでしまったと歌う。この解釈は聴き手に委ねられる。原題のNebensonnenは日本で幻日と呼ばれる自然現象のことで、左右両側に幻日が現れると、太陽は三つとなる。しかし気象条件が変化すると左右二つの幻日は消えてしまう。
「幻の太陽」と訳されることもあるが、この方が「幻日」の意味に近いといえる。
24. 辻音楽師 Der Leiermann
- 村はずれで一人の年老いた辻音楽師と出会う。虚ろな眼で、ライアー(ハーディ・ガーディ)を凍える指で懸命に回している。聴く者もなく、銭入れの皿も空のまま。しかし周りに関心を示さず、ただ自分ができることを、いつまでも続けている。若者は自分と同じ境遇に置かれた孤独な人間と出会い、僅かな希望を見出す。『老人よ、お前についていこうか、僕の歌に合わせてライアーを回してくれるかい?』という問いかけで全曲を閉じる。
- 全曲を通じて空虚五度が、オスティナートとして一貫して奏される。ライアーの正確な描写であると同時に、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが指摘するように、語らないことによって多くを語る音楽である。この虚無の表現はおおよそ他の作曲家にはなしえない、究極的な音楽表現である(ディースカウはこれに関連して、これに類似する音楽は、世界中を探しても、恐らく日本の能楽以外にはないのではないか、と述べている。)。
- ブラームスは作品113の『13のカノン』第13曲「もの憂い恋のうらみ(Einförmig ist der Liebe Gram)」(作詞:リュッケルト)にこの曲のメロディを使っている。